美ヶ原の歴史

八ヶ岳中信国定公園に指定されて平成16年(2004年)で40周年を迎えました。
日本百名山の一つで、火山連邦の八ヶ岳(2,899m)、複合火山の蓼科山(2,530m)、火山性台地の霧ヶ峰(1,925m)美ヶ原(2,034m)の四座の中の一つです。

古代、美ヶ原山麓では黒曜石を運び、加工した遺跡が存在しています。また、野尻湖畔では霧ヶ峰産の黒曜石を使った石器が大量に見つかっていることから、古代から黒曜石の流通経路として人々が行き交ったことが考えられます。

平安時代には、束間郡(松本)には国府があり、茶臼山や武石峠は交通の要でした。当時、信濃には朝廷専用の牧場である勅旨牧(てしまき)が16あり、勅旨牧を統括する牧監庁(もくげんちょう)が束間郡に置かれていました。美ヶ原山麓の桐原地籍には、桐原牧の伝承があり、美ヶ原牧場組合の沿革史には、安閑天皇2年山辺霧原に馬を放ち、又治承年間宇治川の戦いで有名な名馬「するなみ」は当牧場に産し…と書いています。

江戸期中期になって「信府統記」に「美ヶ原」という呼称が始めて登場します。王ヶ頭や王ヶ鼻には、山岳信仰の御岳教の祠が祀られていますが、御岳信仰の講社に集う人々が王ヶ鼻から遙かに望む御岳の姿に手を合わせるという習慣はこの頃から始まったようです。

明治42年に小岩井品三郎氏が入山辺、里山辺両村の共有林を借りて、乳牛を放牧したのが始まりで、安曇平の馬等も受け入れており、明治44年の放牧数は400頭を超えていました。
大正時代に史跡名勝天然記念物調査委員として、県内の植物調査を行った小泉秀雄氏は、「保護すべき千曲山脈の遺存寒地帯」(千曲山脈高地帯の植物地理学的研究,1925)のなかで、武石峰〜美ヶ原〜鉢伏山一帯の高山植物が学術的に非常に価値があることを明らかにするとともに、その保護の必要性を訴えています。これは、美ヶ原における自然保護の元祖と言えます。

昭和に入り、山本俊一氏によって美ヶ原に初めての山小屋が建設され、周辺の登山道も整備されたことで、美ヶ原と人々の関わりは急速に深まっていくことになります。

戦後になると、開発が急速に進み、昭和29年に「美しの塔」が建設され、昭和32年には電電公社(現NTT)、NHKのアンテナが建ち、国鉄バスが王ヶ頭に乗り入れるようになりました。

昭和35年、行政区がまたがる美ヶ原高原で、バラバラに行われていた観光宣伝を一つにまとめるため、当時の松本市長降旗徳弥氏が音頭をとり、当団体「美ヶ原観光連盟」が生まれました。
このころから美しの塔の前で毎年5月第三日曜日に「開山祭」が開かれるようになり、多くの人が集まりました。

自然公園として


長野県立公園条例は、昭和25年5月25日に公布されました。昭和26年11月22日の第一次県立公園区域指定で、霧ヶ峰周辺は「蓼科八ヶ岳・霧ヶ峰県立公園」になり、「中央アルプス県立公園」、「天竜峡県立公園」とともに指定されました。つづく、昭和27年3月3日の第二次県立公園区域指定で、美ヶ原周辺が、「美ヶ原塩尻峠県立公園」に、「御岳県立公園」とともに指定されています。その後、両県立公園地元関係者の要望に基づいて、昭和39年6月1日、「蓼科八ヶ岳・霧ヶ峰県立公園」と「美ヶ原塩尻峠県立公園」を含む一帯は「八ヶ岳中信高原国定公園」に指定されています。


ビーナスラインの建設と自然保護の動き


昭和35年に中信高原スカイライン構想が含まれた「長野県観光開発5カ年計画」が長野県観光開発審議会で決定され、昭和37年の「長野県長期経済計画」では、京浜地域から軽井沢を経て、蓼科、霧ヶ峰、美ヶ原、松本、上高地そして高山、中京地域へと繋がる幹線ルートの一部として位置づけられています。

地元の動きとして、昭和37年に関係市町村議員による「中信高原スカイライン建設促進議員連盟」が結成され、翌昭和38年には、関係市町村による「中信スカイライン建設促進期成同盟会」が結成されて、ビーナスライン建設計画が推進されました。

昭和39年、八ヶ岳中信高原国定公園公園計画に「中信高原線」という路線名でビーナスラインが位置づけられていました。起点は松本市本郷三才山、終点は南佐久八千穂村八郡、主要経過地は美鈴湖、武石峠、美ヶ原、扉峠、霧ヶ峰、白樺湖、蓼科高原、池の平牧場となっていました。

昭和40年に「中信高原スカイライン計画」が長野県総合開発審議会で承認され、翌昭和41年6月、長野県議会において霧ヶ峰において霧ヶ峰有料道路霧ヶ峰線の建設が議決し、10月4日に霧ヶ峰線が着工されました。

昭和43年に、霧ヶ峰強清水まで開通し、八島線が旧御射山遺跡を通って、八島ヶ原湿原のへりをかすめて建設されようとしたとき、この有料道路建設に疑問の目を向けていた「諏訪自然と文化の会」を中心とした県下の学者や文化人・住民などは、道路建設計画が自然や文化などの破壊になるとして反対の声を上げました。八島線のルート原案では、旧御射山遺跡の中を貫き、高層湿原である八島ヶ原の脇をかすめるというものでした。日増しにこのルート変更を求める声が高まり、八島ヶ原湿原と旧御射山遺跡を避ける南回りルートに変更されました。

諏訪市出身である新田次郎氏は、この自然保護運動を描いた小説のなかの登場人物にこう語らせています。
「霧の子孫たちがやらねばならない仕事はいっぱいあるでしょう。(中略)長野県全体、日本全体の霧の子孫たちが手をつないで、自然を守る運動を起こさないと日本の自然はほんとうに亡びてしまうかもしれないわね。」
この小説「霧の子孫たち (文春文庫 112-12)」(文藝春秋・刊)は、自然保護運動の記念碑的作品として読み継がれています。

昭和45年には、八島線が和田峠まで開通し、続いて美ヶ原線も長野県議会の議決を受けて、一部が着工されました。昭和46年には環境庁が発足し、長野県自然保護条例が制定され、昭和48年には長野県自然保護連盟が発足するなどの自然保護運動の流れが加速していくことになります。
美ヶ原線を巡っては、長野県自然保護の会などが中心となり、全県的な「ビーナスライン美ヶ原線に反対する会」(自然保護関係18団体)が結成されて、反対運動が拡がり、全国的な注目を集めた運動が展開されていきました。
こうしたなかで大石武一環境庁長官が自ら現地視察した上で検討する」などで合意し、和田峠〜扉峠の着工を認めました。これに対して長野県は、昭和47年に計画再検討の和田回りルートを環境庁に示したところ、、「尾根筋と美ヶ原台上通過は認めない」という方針を示し、この方針に沿う和田回りルートを認める見解を表明したため、美ヶ原台上通過ルートを案を変更して、昭和48年に扉峠までの着工を開始しました。

昭和51年4月に、和田峠〜扉峠間が開通し、扉峠先線をめぐる議論は結論がなかなか出ないまま、自然環境保全審議会の諮問を経て、昭和52年、長野県が「美ヶ原台上保護利用計画」を策定し、美ヶ原線和田回りルートが着工されました。

昭和56年4月1日、霧ヶ峰有料道路(ビーナスライン)は全線供用開始となりました。

■美ヶ原についてへ

同じカテゴリー(美ケ原高原について)の記事
 美ヶ原の履歴 (2011-08-15 00:00)
 美ヶ原について (2011-08-15 00:00)
プロフィール
美ヶ原観光連盟
美ヶ原観光連盟

美ヶ原高原がまたがる3つの自治体(松本市・上田市・長和町)と関係する事業者が協力し、施設の運営や地域PRに取り組んでいる団体です。昭和35年設立。