美ヶ原の履歴

古  代:火山活動により誕生。

縄文時代:台上での人の営みがあったと考えられる。
     山麓で黒曜石の運搬・加工が行われていた遺跡が残されている。

平安時代:台上での馬の牧場、勅旨牧(てしまき)が16あった。

江戸時代:御岳教の信仰の対象となる。
     御岳山を向く石仏などが多く建てられる。

明治時代:台上で共有林を使い、小岩井品三郎氏が放牧を開始。

大正時代:小泉秀雄氏による植生植物の学術的価値保護が訴えられる。

昭  和:山本俊一氏による山小屋、登山道の整備が行われる。
     昭和27年、皇太子さま百曲がりルートで御登頂。
     第二次県立公園区域で県立公園に指定される。
     昭和33年、駒越林道開設、美ヶ原山頂へ松電バス運転開始。
     昭和35年、美ヶ原観光連盟発足。
     美しの塔、通信施設の建設などが進む。
     昭和38年、高松宮さま美ヶ原高原ホテルにご宿泊。
     昭和39年、八ヶ岳中信高原国定公園に指定される。
     中信高原線(ビーナスライン)の計画が進む。
     昭和43年、ビーナスライン松電バス運転開始。
     昭和56年に供用開始。
     同年秋、美ヶ原高原美術館開館
     自然保護活動の活性化が進む。

平成19年:日本で一番標高の高い道の駅に美ヶ原美術館が登録される。

事故履歴


昭和4年、松本第二中学校(現松本県ヶ丘高校)の生徒2名が遭難。
武石峠近くの暗闇沢で遺体となって発見される。
武石峠付近、沢への入り口に慰霊碑が建っている。
美ヶ原高原が一般に知られるようになってからの始めて遭難事故。
このころ、冬山で松本市内の国鉄職員が遭難事故死している。

昭和25年2月、松本医学専門学校(現信大医学部)の学生2名が遭難。
同年4月大樽沢稜線で遺体となって発見される。
王ヶ頭から王ヶ鼻へ向かう道の右側に慰霊碑が建っている。

昭和38年春、小県郡塩田町(現上田市塩田)の工員1名が日帰り予定で登頂。
下山しなかったため、付近を捜索。
翌朝、牛伏山北斜面を200mほど下った所の雪の中で遺体となって発見。


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プロフィール
美ヶ原観光連盟
美ヶ原観光連盟

美ヶ原高原がまたがる3つの自治体(松本市・上田市・長和町)と関係する事業者が協力し、施設の運営や地域PRに取り組んでいる団体です。昭和35年設立。